蝶の形を図案化した蝶文(胡蝶模様)は、古くから世界中で使用されてきました。
デザインにおける蝶(ちょう)・蝶文(ちょうもん)
古代中国では、絹(繭)を生み出す蛾は非常に大切にされてきました。
幼虫から成虫になる間で、蛹になるという完全変態の過程があることから、蝶は復活と再生のシンボルとして古代中国では考えられてきました。
秦帝国の始皇帝が、皇帝としての威厳の象徴として造営したのが「阿房宮」と「驪山陵」ですが、驪山陵に埋蔵されていた金製の蚕には、蘇生の願いが込められているといいます。
隋や唐の時代(6世紀〜10世紀)には、蝶が芸術上のデザインに用いられています。
キリスト教においても、復活祭に関連して蝶は、キリストの復活を表すといいます。
また、家の中に蝶が入ってくると結婚が近いことを意味する民間伝承があるようです。
インドにおいても、蝶が頭の上をぐるぐる飛ぶことが結婚の前兆であるとの言い伝えがあるようです。
日本における蝶文(ちょうもん)

蝶文(ちょうもん)が彫られた伊勢型紙
日本においては奈良時代の遺品や正倉院裂に蝶の模様(蝶文)が多くみられ、これらは唐の時代に様式化されたデザインが伝わったものと考えられます。
蝶が草花や鳥の模様に描き添えられた形で表現されていますが、平安時代中期以降は、蝶のデザインも精細に表現されるようになります。
点景的(主題とは関係なく副次的に置かれたもの)ではなく独立した文様としても表現されるようになり、華麗な揚羽蝶(アゲハチョウ)のデザインも生まれます。
揚羽という意味は、羽を直立させて休んでいる姿を表します。
揚羽蝶は平家が用いた家紋としても知られています。
調度品や衣服に蝶文が流行し、有職文様の一種で、蝶々が伏せているようなデザインから「臥蝶丸(ふせちょうのまる)」という名前がついた丸い文様も平安時代から用いられます。
有職文様とは、平安時代以降の公家社会において装束や調度、輿車、建築などに用いられた伝統的な模様(文様)のことです。
蛹から美しい蝶に変化する様子から、鎌倉時代や室町時代頃から再生や不老不死の象徴(シンボル)とされ、武家に好まれました。
また、蝶が女性の人生と重ねられることから「女性のシンボル」として意味を持ち、着物や帯の柄としても好まれました。
安土桃山時代頃には、岐阜の春日神社が所蔵する「縫箔 白練緯地松藤揚羽蝶模様」など優れた作品が作られています。
安土桃山時代(1568年〜1600年)に入ると、能装束や小袖などにも蝶が模様(文様)として用いられるようになります。

蝶文(ちょうもん)が彫られた伊勢型紙
江戸時代の人々は、「士農工商」と表現される、厳しい身分制度の中で生活しており、特に、「士(武士)」と「農工商(庶民)」との身分差は大きなものでした。
次第に町人たちの経済力や文化的なレベルが高まり、文化の担い手が町人に移るようになると、蝶文様はさまざまな形でデザイン(パターン化)され、かわいらしく親しみやすいモチーフも生まれていき、中型や小紋、絵絣などさまざまな形で表現されています。
江戸時代前期の17世紀ごろに作られたとされる「蝶捻花模様小袖」には、大きな揚羽蝶が表現されています。
秋草と蝶を組み合わせた模様は、能装束に好まれ、「唐織 紅白段菊薄蝶模様」はその一つです。
花との組み合わせも多く、特に牡丹との組み合わせは中国の故事に由来するテーマとして好まれてきました。