江戸〜昭和初期の古布から、着用した人々の人生、想いを書き留めた名著、『襤褸達の遍歴ーこぎれ四百姿』堀切辰一著


1987年1月21日、古民具店を経営していた堀切辰一氏が、『襤褸達の遍歴』という本を出版しました。

この本は、約15年かけて全国から集めた着物やふとん地の布400枚が、4センチ×12センチに切り分けられ、貼り付けられています。

江戸から昭和初期にかけて生産された布たちの用途、材質、産地を一枚ずつ調べ、可能な限り身につけていた人から着物にまつわる話を聞き出して、解説が書かれているのです。

襤褸(らんる)とは、「ぼろきれ」や「ぼろ」のことを指し、使い古した布や、補修されて継ぎ接ぎだれけの布を意味しています。

堀切氏は、「ぼろ」ではなくあえて襤褸(らんる)と呼んでいました。なぜなら、小さな布もまだ使命を持っており、役に立たないものではないから「ぼろ」と呼ぶのはふさわしくないと考えていたためです。

古着としても歴史資料の価値がある着物を切り刻んで本に張るのには、やはり周囲の反対があったようですが、「布に込められた人生と思いは、実物の布に触れてもらわないと伝わらない」と堀切氏はあえて本に残したのです。

経糸がからむし糸、緯糸に絹糸

堀切氏が古布にひかれた原体験

古布にひかれるようになったのは、ある出来事が原体験としてありました。

1944年(昭和19年)、当時18歳の頃、華北交通という日本の国策会社で勤務していました。

その工事現場で、中国人の大工が犯した単なるミスから発生した事故によって、堀切氏にスパイ容疑がかけられ、憲兵隊に三日間留置されて拷問を受けました。

釈放されて宿舎に帰り、故郷の母が丹念に仕立て直してくれた質素な久留米絣の敷布団を見て涙があふれ出たのです。

この敷布団が堀切氏にとって故郷や親兄弟そのものに思えて、こみあげる懐かしさに涙が止まらなかったのです。

布はここまで人の想いを吸収しているものだったのかというその時の気づきが、後に古布を収集するひとつの原体験となったのです。

古い布達には嘆きや哀しみがある

古い布達には嘆きや哀しみがあり、その嘆きや哀しみ(悲しみではない)に私は強い共感を覚えると堀切氏は『襤褸達の遍歴』にて書いています。

堀切氏は出版に際して受けた毎日新聞の取材に対し、以下のように語っています。

「口はばったいごとありますが、私だけしか書けないと思いまして。こんなぼろを着て懸命に生きた人たちの証(あかし)を書きとめておきたかった。ここに書いた古布の歴史は、今の若い人たちには想像がつかないような世界でしょうが、読んで実物の布に触れ、人間の歴史を感じてほしい」

「私たちが子供だった時代にはこんなぼろを着ている人がほとんどで、ツギをあててない着物が着られたのは、ほんの一握りの人たち。ぼろの持ち主がなまけて貧しかったわけではなく、社会のしくみだったんですよ」

古い時代を生きてきた人達が、生きるために身にまとった布に触れれば、それが彼らの人生を少しでも語る「生」の声にはならないだろうか、当時の暮らしや生き方や「こころ」が分かりはしないだろうか、堀切さんが出版に際して考えていたことです。

布が語る数々のエピソードと堀切氏のコメント

四百枚の布の中には、印象的なエピソードが残るものが数多く存在しています。

借金取りに見つからないようにそでを通さなかったが、その着物を持っているだけうれしかったと語る老女。

家族の生活を助けるために女郎(売春婦)となった女を、過酷な境遇から救い出してくれた男(後に夫となる)が着ていた袢纏(はんてん)を心の支えに生きてきた老女の話など、布とともに近代を生き抜いてきた庶民の証言として非常に重みがあります。

女を助けた男(後に夫となる)がその時着ていた袢纏の切れ端

堀切氏のコメントで特に印象深いものを、以下にいくつか抜粋します。

古い手仕事の織物に触れる度に考えるのであるが、気の遠くなるような工芸を、ごくあたりまえのこととして、受け入れなければ生きることの出来なかった人々には、後世私達が賞賛する『民芸の美』など一かけらもなかっただろう。唯黙々と作ることだけがそのすべてであり、それが生きる為の条件であった。

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すぐれた物を作ることは、周りに褒め讃えられ様とする売名の為ではない。高く売ろうとする欲心でもない。もっと痛切なものがその底辺にあった。早く売れ、そして買った人に喜ばれたい、というつつましい祈りであったのである。「無作為の美」はこの心から生まれる・・・と思うのであるが。

古い時代、庶民達が作って売るものは、「高く」よりも「早く」がその願いであったと聞く。それは魚も農作物も又織ものも。

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「着るものにおれ達がどれ程心をいためたか、今の者には分からないだろう。だから捨てるな、腐ってもよいから捨てるな」

持主の家の老いた人はそう言い残して逝ったという。これに似た話を私は随所で聞いた。

四百枚の布の最後に登場する、機械織りの軍服

四百枚の最後に登場するのは無造作な機械織りの軍服です。軍服ほど着た男たちの思い、その背中を見送った女たちの悲しみが込められたものはありません。

堀切氏が自身が軍服を着て、戦友達が中国の極寒の土地で次々に倒れていくのを目の当たりにしてきました。彼が20歳の時に終戦を迎え、除隊した時に新品の軍服が配給されたそうです。

「あのボロボロの軍服で酷寒を耐えしのんだ日々の代償に、国が報いてくれたのはたったこれだけか。死んでいった友人には、国は何で報いてくれるのだ」とむなしさがこみあげたと言います。

毛織の軍服(陸軍)

なぜ、四百枚の資料の最後に軍服を当てたのか。堀切氏はこう語ります。

今までおさめた※三百九十六点の「こぎれ」達には、嘆きや哀しみしかなかったかもしれない。歓びはごく僅かであっただろう。然しそれぞれに「美」があり「心」があり「希望」もあった。

この資料には「美」がない。「心」がない。「希望」があっただろうか。希望があったとしても、それは蜻蛉(かげろう)よりも儚いものである。

※三百九十六点・・・397,398,399,400番目の資料は、どれも戦争、軍服に関連したもの

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「軍服」何があっただろう。「心」があっただろうか。私は軍服に象徴されるものは「死別」であると述べた。女達は「軍服」に連れ去られる男を、どの様な思いで見送っただろう。連れ去られる男達は、残してきた女のことをどの様に思い偲んだだろう。

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私はこの項を持って「あとがき」に当てる。襤褸達の遍歴を閉じるのは「軍服」でしかない。「軍服」に侵された男達のいのちとそれを拱手(きょうしゅ)して見つめなければならなかった女達の慟哭(どおこく)は、正に襤褸である。

「軍服」に連なる襤褸達の悲嘆を、私達は繰り返してはならない。それは襤褸達に対する残された、たった一つの贖罪である。

読む人によっては、その人の人生に大きく影響を与えうる本

『襤褸達の遍歴』を読み、丁寧な仕事とこの資料を後世に残してくれたことに対する尊敬の念が絶えません。

布に対する解説、堀切氏が布から感じとったことを落とし込んだ文章は心に響きます。

読む人によっては、その人の人生に大きく影響を与えうる本であると間違いなく言えます。

古着を丁寧に繕って、三代四代と着ているのが当たり前の時代があったということを、衣類にあまりにも恵まれている現代において再考する必要があると感じます。

この本は、今ではほぼ流通していませんので、堀切氏の他の著書で、古布を通して彼が伝えたかったことをぜひ感じてみてください。


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