日本における甲冑(かっちゅう)の移り変わりと歴史


甲冑かっちゅうとは、弓矢や刀槍とうそう(刀と槍)などによって行う戦闘に対し、身体を保護するために着用する武装を表します。

通常、胴部に着用するものを「よろい」といい、「甲」や「鎧」などの字を当てます。

頭部にかぶるものを「かぶと」といい、「冑」や「兜」の字を用います。

甲冑(かっちゅう)の移り変わりと歴史

古墳時代には、薄板金うすばんきん小札こざねを糸や革で繋いだ「挂甲かけよろい」と野球帽のように前につばのある「眉庇付冑まびさしつきかぶと」が、朝鮮半島を経由して伝来しています。

眉庇付冑まびさしつきかぶと」は、鉄板をびょうで留めた短甲たんこうと、「衝角付冑しょうかくつきかぶと」と共に用いたことが、遺品や人物埴輪はにわから読みとけます。

奈良時代末期には、布製で中に綿を入れた綿襖冑めんおうこう(綿甲、綿甲冑)や甲革が唐(中国)から舶来していました。

平安時代中期頃までの日本においては、これらの唐製(中国製)の甲冑かっちゅうを模倣していました。

平安時代中期頃から、それまでの甲冑かっちゅう折衷せっちゅう(良いところを組み合わせる)して改良し、馬に乗った状態から弓で矢を射る騎射きしゃ戦においてよく適応する「大鎧おおよろい」が作られました。

糸縅いとおどし画革えがわなどで美しく装飾した大鎧おおよろいは、源平の時代の武将を美しく彩り、鎌倉時代まで用いられ、胴丸どうまる(徒歩戦に適した鎧の形式)や腹巻はらまき(背中から体を入れて引き合わせる形式の甲冑)などの略装も生まれました。

鎌倉時代中期の1274年、1281年にモンゴル帝国(元朝)および属国の高麗によって2度にわたって行われた対日本侵攻である「元寇げんこう蒙古襲来もうこしゅうらい)」以後、戦法にも変化が生まれ、やりや刀を用いる徒歩や山地の戦いには大鎧おおよろいは重くて不適当となり、結果として略装の方が多く用いられるようになります。

さらに室町時代中期ごろから鉄砲が導入され、槍や鉄砲の戦いに適応するように、隙間がなく無駄がない鉄胴などの具足が作られ、「当世具足とうせいぐそく」としてもてはやされました。

江戸時代には、甲冑かっちゅうは武具の象徴として重視されていましたが、徳川時代は戦いがほとんどなく平和であったため、形式は前代を踏襲してほとんど変化はありませんでした。

ヨーロッパにおける身体を保護するために着用する武装

ヨーロッパにおいては、古代ギリシャやローマ時代ではトサカ(鶏冠)状のクレストのついたかぶとに胴甲が中心でした。

革や鉄、青銅などで作られ、儀式用には上にマントも用いられました。

中世初期には、鎖帷子かたびらが登場し、鉄の輪を繋いだチュニック状のものですが、頭から爪先まで全身を覆うものでした。

13世紀頃から、鎖帷子かたびらを部分的に鉄板で補強したものも作られました。

鎖の代わりに鉄の小片を厚地の布にびょうで留めつけた鎧も作られ、コートオブプレーツ(coat of plates)やブリガンディン(brigandine)と呼ばれました。

16世紀以降には、銅鉄製の板を尾錠で繋いだ精巧なプレートアーマー(plate armour)が用いられ、かぶとも顔全体を保護する形となり、全身を銅鉄で覆うようになります。

19世紀には簡略化され、胸と背だけの胴甲のみが多くなりました。


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