杏(学名 Prunus armeniaca)は、バラ科のブンゴウメに良く似ており、春先に花が咲かせ、果実は6月下旬から7月上旬にかけて収穫されます。
日本では、東北、信州、甲州などの比較的北国での栽培が適しています。
原産地は中国北西地方や中央アジアで、中国では古代からウメやモモと共に重要な果樹、もしくは薬木として栽培されてきました。
種を割った中に入っている杏仁は、生薬として使用されてきました。
目次
染色・草木染めにおける杏(あんず)
山崎青樹著『草木染日本の色』には、杏の樹木の幹(幹材)から抽出した煎汁を用いて、焼ミョウバン媒染で赤みのある橙色である樺色に染めたあと、蘇木(スオウ)で赤朽葉色(赤みをおびた朽葉色)に染めた例が記載されています。
杏の幹材は、木灰やクロム媒染で赤味がかった黄茶、ミョウバンや錫で、薄赤黄茶、銅媒染で黄茶色として染めることができます。
植物染色における名著『染料植物譜(後藤捷一・山川隆平著)』には、「松本市並にその近傍にては樹皮の煎汁にて煮染し、石灰水を通じて淡赤茶色を得るという。思うに梅汁類似のものなるべし」と記載されています。
色彩名としての杏色(あんずいろ)
杏の実がよく熟した時の色という意味で、杏色という色彩名があります。
杏色は、やや赤味のある橙色を表しています。
日本における杏(あんず)の歴史
日本の杏は、ウメと共にかなり古くから渡来したと言われています。
平安時代に編集され、日本最古の薬物辞典である『本草和名(918年)』、平安時代中期に作られた辞書である『和名類聚抄(和名抄)931年~938年頃成立』に加良毛毛の和名で記されており、『万葉集』や『古今集』などの古歌にもこの和名で詠まれてきました。
平安時代にまとめられた三代格式の一つである『延喜式(927年)』には、山城(現在の京都府南部の地域)、摂津(現在の大阪府北中部と兵庫県南東部地域)、甲斐(現在の山梨県の地域)、信濃(現在の長野県の地域)から、杏仁を貢進したことが記されています。
つまり、平安時代には、すでに日本の各地で栽培されていたのがわかります。
長野県の善光寺やあんずの里である長野県千曲市あたりの地域が古くから有名で、松尾芭蕉も「善光寺 鐘のうねりや 花一里」という俳句を彫りつけた石碑(句碑)を善光寺境内に残しています。
この地域で栽培が盛んになったのは、伊予国宇和島(現在の愛媛県宇和島市)藩2代藩主であった伊達宗利公の息女、豊姫が松代藩主(現在の長野県長野市松代町松代)、真田幸道公のもとに嫁入りする際に、伊予国宇和島から杏の苗を取り寄せて植え付けたところ栽培に適していたという話があります。
あんずと呼ぶようになったのは、江戸時代初期からといわれ中国の江南地方の方言が伝えられたとされています。
杏(あんず)の薬用効果
種を割った中に入っている杏仁には、脂肪油、可溶性のタンパク質、青酸配糖体の一種であるアミグダリンなどが含まれています。
杏の杏仁は、利水効果、鎮咳薬、喘息などに有効で、他の薬と配合して種々の漢方に使用されてきました。
杏仁を圧搾して得られる脂肪油は、良質な油として食用や髪油などに使用されたり、杏仁の脂肪油を除いて、水蒸気蒸留をおこなって取り出した杏仁水も鎮咳薬として用いられたりしました。
中国料理の杏仁豆腐は、杏仁の粉末を寒天やゼラチンなどで固めたものです。
二種類の杏仁(きょうにん)
杏仁には、苦味を持つものと持たないものがあり、これはアミグダリンが含むか含まないかの違いによるものだとされています。
苦味を持つものは、苦杏仁(北杏仁)といい、薬用に使用されてきたのはこの系統のものでした。
日本の厚生省はで苦杏仁は、漢方のように薬として使う事を製薬会社には許していますが、苦杏仁を食品として使うことを禁じています。
食用に使用されるのは、甜杏仁(南杏仁)と呼ばれるものです。
ビワやモモ、ウメなどの未熟な果実の種子にも含まれるアミグダリンは、人間が食べると、体内で毒性の強いシアン化水素(青酸)に変わります。
アミグダリンを少量食べても大きな問題は起きませんが摂取量が多いと、頭痛やめまい、おう吐、肝障害などの中毒症状を起こす危険があるためです。
参考文献:『月刊染織α 1982年4月No.13』