更紗とは、16世紀以降、ポルトガルやオランダ、イギリスなどのいわゆる南蛮船が運んできた、インドや東南アジアの模様染めされた布を指して呼ばれたものです。
更紗は「紗羅紗」や「皿更」とも書かれ、「華布」や「紗室染」などとも言われていました。
今日における更紗といえば、木綿に東南アジアやインド的な模様を細かく模様染めされた布を指していることが多いです。
天草更紗(あまくささらさ)とは?
日本においては、更紗は室町時代に渡来しており、「名物裂」としてもてはやされていました。
当時の人々にとっては、更紗は独特で異国風な色や柄が珍しかっただけでなく、まだ木綿が普及していなかったため、布地の素材そのものも新しいものだったのでしょう。
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日本各地では、江戸時代に海外から渡来した更紗を模して、さまざまな更紗(和更紗)が作られました。
現在の熊本県の天草地域においても更紗が作られ、「天草更紗」として知られていました。
天草更紗はの起源は、江戸時代後期の文化文政時代(1818年〜1831年)に、この土地の人がオランダ人か京都の職人から更紗の技法を習ったことに始まるとされています。
当初の技法は、片面に型紙を使って糊置きしていくもので、手描きによるものは珍しいものでした。
使用する型紙は、初めの頃は輸入品を用いていたようですが、のちには伊勢型紙を用いるようになります。
使用する生地は、地域で織られた粗い木綿布か、中国からの輸入された綿布が用いられていました。
天草更紗の特徴
天草更紗の模様(文様)は、ペルシャやインド、オランダ風の花や鳥、草花系統の柄がほとんどでした。
染色には茶、黄、赤、緑、黒といった色が多く用いられました。
使用された染料は、赤を染める蘇芳や黄色を染める黄檗、楊梅や黒木などの植物染料と、ベンガラや黄土などの顔料も使用されました。
天草更紗は、明治時代の初期まで染められ、その後は一時は生産が中断されていましたが、大正11年に本渡(現天草市)の中村初義氏が中村染工場を開業し、天草更紗の復興に取り組み、昭和の初めに再興されました。
昭和39年(1964年)に、天草更紗は熊本県の無形文化財の指定を受けましたが、昭和40年代頃に中村染工場も閉鎖に追い込まれ、またも天草更紗は途絶えてしまいました。
しかし、再度天草更紗の復興に取りかかり、2002年に「平成の天草更紗」として復興を遂げました。
天草更紗の技法
天草更紗に使用する記事は、主に木綿布が用いられました。
三間半の長さの型板に、型板糊(地張り用の糊)を引いてから、生地を張ります。
型付けは、生地に型紙をあてながら、防染糊の中に染料を混ぜた色糊を使用して、ヘラでしごいていきます。
用いられる型紙は、伝統的な更紗柄を伊勢型紙を使用して彫られたものです。
模様(文様)部分に糊を付け終わると、地色の糊を置いていきます。
糊の補強のために、おがくず(大鋸屑)を振りかけたら、布を板からはがし、蒸気が出ている箱の中に入れて、約100度で20分ほど蒸します。
蒸すことによって、色糊が布に染まり付くのです。
その後は、糊を湯洗いか水洗いでしっかり落としてから仕上げをして出来上がりです。