日本において江戸時代末期以降、都市部を中心に仕事の専門家である職人は、職種によってそれぞれに相応しい着物を使うようになりました。
法被、半纏、腹掛などの非常に機能的な仕事着は、江戸時代末期から明治、大正、昭和の時代まで、あちこちで着用されるようになりました。
また、機能的な面だけではなく、意匠美に富んだものでありました。
目次
法被(はっぴ)
江戸時代に、武士に仕えて雑務をおこなっていた中間などが着たものです。
羽織のように身丈が短く、袖丈は小袖とほとんど同じで、襟を外側に折り返す形となっている上着です。
半纏よりも格式の高いものとされ、長い袖丈には主人の家の定紋をつけました。
江戸末期に武家の衰退とともに使われなくなり、名前が半纏に被せられ、半纏を法被とも呼び、混同されるようになったのです。
半纏(はんてん)
半纏は、半天とも書かれ、直垂のように細い袖で丈の短い衣類です。
襟は、外に折り返さず、両脇が縫い合わされており、その簡易さから労働着として親しまれました。
防寒用のものには、綿入りのものがあり、縞、格子柄のものも使用されました。
印半纏は、藍染された紺色地の背中や腰などに家紋や屋号などの印を染め抜いたものを言います。
主に、職人や鳶職が使用しましたが、今でいうと制服やユニフォームのように雇い主が使用人に支給して着させたものもありました。
火事の際に着用された火事半纏は、木綿でできた裏地のある袷の全面に刺し子をしたもので、刺し子半纏などと言われていました。刺し子半纏は、裏返して着ることもできるリバーシブルタイプの着物でもありました。
腹掛(はらかけ)
腹掛は、俗にいう「どんぶり」と言われる大きなポケットをそなえたエプロン状の胴着です。
襟はなく、半円形の上部分から後方にたすき掛けに紐で肩から釣るようにして、胸と腹部を覆います。袖もなく、藍染された木綿を使用しています。
下部分のポケットには仕事に使う物を入れることで、その物の重みで、中に入れたものが出にくくなるようにできています。
子守が着ていた「ねんねこ半纏」も、赤ちゃんに風邪を引かせないように配慮した仕事着でした。
大正時代から仕事着も洋服化へ
大正時代に入ってから男子の仕事着が、和装から洋装へと進んでいき、特に洋服を着るのは役所や会社、工場などに出勤する人たちでした。
女子の洋装化は男子と比べて遅く、ほとんどは着物をきていました。職業夫人と呼ばれるように、だんだんと社会に進出して働く女性が増えていったことで、彼女たちが洋服を着始めたり、洋服を着ない人も着物の上から事務服を着て、活動しやすくしていました。
仕事をするときに和服の場合は、袖の下に袋のように垂れた部分(袂)が邪魔になって不自由なので、たすきをかけるか、新くエプロンに細い袖をつけた割烹着が一般的に使われはじめました。