唐桟とは、綿織物の一種で、平織された細かな縦縞模様が特徴的です。
細い綿糸を2本づつ引きそろえた双糸 で織り上げることで、シルクのようなしなやかな風合いも特徴の一つでした。
目次
唐桟(とうざん)の歴史
唐桟の舶来は、京都や堺などの豪商の船によって始められたものと考えられていますが、ポルトガルやオランダ商船などの来航もあり、さらに古くは沖縄の琉球船の唐吧旅(南方貿易)があったことや和冦の活躍も考慮に入れる必要があります。
室町時代末期〜安土桃山時代の自由貿易の頃の状態を詳しく知ることはできませんが、安土桃山時代の永禄5年(1562年)にポルトガルの船が長崎に入港したのが記録が残っています。
オランダ船が平戸貿易を始めたのが1609年、イギリス船が来航し、長崎で通商条約を日本と結んだのが1613年、鎖国が始まったのが1639年のことです。
鎖国に入ってからの貿易は、長崎の出島や平戸は外国との限られた交易の接点になりました。
鎖国は、江戸幕府がキリスト教や外国勢力の流入を恐れていたり、外国との関係の統制をはかることなどを目的にして、寛永16年(1639年)から安政元年(1854年)までの間、朝鮮・中国・オランダを除く諸外国との通商、往来や日本人の海外渡航を禁止したことです。
文献上に、唐桟という言葉にまとめられるさまざまな綿織物の名前が現れるのは、鎖国に入ってからのようです。
当時の舶来の品には、糸や端物(反物)、薬物、革などがありました。
端物(反物)には、羅紗や天鵞絨、繻珍、金襴、緞子、繻子といった高級毛織物や絹織物をはじめとして、さまざまな国から舶来した綿織物が断片的にいくつかの文献に出てきます。
寛文年間(1661年〜1673年)に和蘭陀船が舶載した綿織物には、「かなきん」、「糸せいらす島」、「糸あれしや島」、「大木島」、「帆木島」、「弁柄奥島」など様々な種類の織物と呼び名がありました。
明和元年(1764年)から安永9年(1780年)の間の、主に長崎での貿易実務について書き留めた『明安調方記』には、輸入された品の国名と産物を記した項目があります。
例えば、榜葛刺(ベンガル地方)からは、「黄糸」「アレシア嶋」「茶苧」「木綿嶋」などがあったり、聖多点(インドのコロマンデル海岸地方の異名)からは、「奥島」と名のつく木綿嶋の記述が多数記載されているのです。
唐桟(とうざん)の唐の意味
古く、日本に渡ってきた品物の多くが「唐」の字をつけられて呼ばれていました。
唐の字は、唐様や唐物などのように、優れたものや美しいものの意味を込めて呼び名が付けられました。
唐織や唐絹、唐綾などの品々ももれなく上質で高価な品々でしたが、唐桟も例外ではありませんでした。
唐は、618年から907年まで続いた中国の王朝で、中国文明の黄金時代とも言われます。
日本における飛鳥時代の終わりから奈良時代を過ぎ、平安時代初期の延喜の頃まで続いた国家が唐なのです。
日本は唐から大きな影響を受けていたため、文化人にとっての唐は先進国としてあこがれの国としてとらえられていたと考えられます。
唐(とう)は、音だけでなく、唐(から)と訓読みをでき、唐人という読み方には、唐の国の人を表すだけなく、文化人や教養人という意味も加わっていたのです。
奥島(唐桟)の由来
奥島という名前の由来には、いくつか説がありますが、最も妥当と考えられているのが、江戸時代の鎖国している時期で、海外との接点に乏しい時代には唐のさらに先の「奥の国」でできた綿織物という説です。
徳川幕府時代に唐船と言ったのは、決して中国船のみを指すものではなく、船舶を問わず、唐貿易(船)とも言っていたようです。
オランダや江蘇や浙江から来る船を口船と呼んだり、福建からの船を中奥船、暹羅(現在のタイ)や柬蒲塞、咬吧(インドネシア)などから来る船を奥船と称していました。
奥島は、中奥船や奥船によって運ばれた木綿の中に、セイラスや弁柄嶋といった特別な呼名をもたない木綿縞織物の総称と考えられます。
サントメは、算留、桟留、三止女などの字を当て、インド東海岸のセント・トーマス島(St.Thormas I.)の名前に由来するもので、ポルトガル人がここから持ち渡ったものだとされています。
唐桟は、外国で織られたサントメ嶋(縞)が「唐サントメ」とも呼ばれ、濁音化して略され「とうざん(唐桟)」になったと考えられています。
唐桟という名前は、関東で親しまれた名前であり、関西では唐桟の名はあまり知られておらず、その代わりに「奥島」という名の方が知られていたようです。
奥島と唐桟が全く同じものかというと、必ずしもそうではなく、唐桟には縞柄であるというはっきりとした決まりがありました。
唐桟は、大名・金通し・茶紺・西川・新垣・万両・胡麻・鰹・算崩といった縞立てをいい、その変化範囲のものしか呼びませんが、関西でいう奥島の語感が持つものは、もう少し広い範囲の渡来した縞織物の総称だったとされます。
縞織物がいつ頃から日本に渡来し始めたについては、憶測の域を出ませんが、室町時代末期から安土桃山時代などと大雑把な考えしか成り立ちません。
日本における唐桟の生産
日本国内においても唐桟は、数多くの類位のものが織られました。
地名で言うと、東京都青梅市、千葉県館山市、栃木県佐野市、埼玉県所沢市、埼玉県飯能市、群馬県桐生市、群馬県館林市、山形県米沢市、静岡県浜松市、京都府などが挙げられます。
歴史が古いのは東京都青梅市で、江戸中期に出版された事典『人倫訓蒙図彙』(元禄3年、1690年)に出てきます。
最も著名な唐桟の産地として知られたのは、現在の埼玉県の川越で、一大消費地である江戸に近く、川越唐桟は、「川唐」と呼ばれ粋な織物として庶民に受け入れられていました。
川越唐桟は、嘉永年間(1849年〜1853年)に正田屋(中島)久兵衛の創案になると考えられ、生産が盛んになったのは、海外から木綿糸が入ってきてからのことです。
万延2年(1861年)に正田屋(中島)久兵衛が横浜の米館から洋糸を求め、中村佐兵治、山田紋右衛門と計画し、唐桟を模した縞織物を織り出しました。
洋糸が国内でで生産され、普及し始めた明治2年〜3年が、川越唐桟の最盛期となりました。
明治40年頃を境に、生産が衰え始め、大正に入ってからはほとんど途絶えました。
川越で織られた木綿織物は細番手の双糸が多く、川越唐桟も双糸の唐桟でした。
川越の松江町に買次問屋が10軒ほどあり、織物はこれらの商家に属する染屋で糸を染め、糊付け、整経し、筬通した「玉」を付近の農家に賃機に出す習慣でした。
10反から12反を一機とし、番頭が毎日のように農家をまわって届け、集荷をしました。
問屋にはそれぞれ自分の下請けの出機区域があり、それを「壺」と呼び、受け持ちの区域をまわるのを「壺廻り」と呼び、糸の玉は風呂敷に包んで背負って歩いたので、それを玉背負と呼びました。
出機の範囲は川越を中心として、五里四方(一里≒3.927km≒4km、東西南北方向に20kmほど)に及んだと伝わっています。
織り上がった反物は、五の日と十の日で商い、まとめて毎日馬力2台の出荷があったというので、川越の木綿織物が、全国に広がっていたことがわかります。
川越唐桟が有名になったのは、9代目市川団十郎が「わしが大切の一張羅の川唐の帯も、水のため川止めに質に流すとは惜しい。」と舞台で言ったセリフがきっかけになったと岸伝平(著)『川越閑話』に記載されています。
唐桟の特徴
奥島唐桟は、すべて平織りであり、綾織などその他組織は含まれていません。
糸の太さは、渡来品にしても国産にしても多くは80番から120番手の毛羽立ちを焼きとったガス糸が使われていました。細いものは、200番手のものも含まれていたようです。
糸が細いこともあり、単糸で使うことはめったになく、二本の糸を寄り合わせた双糸や引き揃えにして二本筬の一羽に入れる斜子にして織られました。
総じて唐桟といえば、双糸の糸が使われるというのが通念になっていました。
唐桟の一番の魅力といえば、細身で鮮やかな繰り返しのはっきりした美しい縞割りにあり、必ず経縞であり、緯縞の唐桟は一点もありません。
日本の木綿にはめずらしく、赤か赤みの強い茶色の糸が約束のように入り、藍を基調にした鮮やかな経縞は、類似の柄をも含めて唐桟柄とも呼ばれました。