「手間がかかる」という言葉は、その多くがマイナスのニュアンスを含むものとして使われています。
辞書で基本的な意味を調べてみると、「想定した以上に時間や工数を要したさま」「物事が短い期間では完成しないさま」「何かと世話する必要があり煩雑なさま」などと説明されています。
いずれも効率化と生産性の向上を目指す資本主義的視点からみると、明らかに手間はできるだけなくすべきものでしょう。
一方で、「手間がかかる」は、ポジティブなイメージを含むものとしても使われます。
「手間をかけてつくられた商品」「手間がかかっている料理」などと聞くと、なんだかそのものにたいする期待が高くなるようです。
僕は、このポジティブで使われる手間のイメージが、近い将来、ネガティブなイメージで使われる「手間がかかる」を越えていくと思っています。
「手間がかかる」という言葉は、ほとんどの場面において良い意味を含むものとして使われるようになるのではないかということです。
いかに手間を省くかを追求してきた時代
18世紀後半、イギリスではじまった「産業革命」から、人類はいかに手間を省くことができるかを追求してきました。
1950年代後半、日本でもいわゆる三種の神器と呼ばれた白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫の家電3品目にだれでも手が届く時代が訪れ、劇的に生活が変わっていきました。
テクノロジーのおかげで、これまで苦労して手間をかけてきた物事からだんだんと解放され、人類はより快適に生きていけるようになったのです。
これは先人たちの努力の賜物であり、現代の僕たちはその恩恵を受けています。
手間を省きつづけた先にあるもの
世界中で、日々新しい技術やサービスが生まれ、人々の助けとなっていますが、際限なく手間を省き続けた先にある未来に不安感は多少なりともあります。
テクノロジーによる効率の先にある未来。人間のやることがほとんどなくなり、人々が「暇」になるとなにが起こるか。
未来のことを考えて不安になり、思考停止することは、まったく自分のためにならないので注意しないといけませんが、手間は省けたけど、それによって失われる「価値」というものもあると思います。
以前にこんな、ブログ記事を読みました。
テクノロジーによって成し遂げられる未来というのは、基本的には「人間が人間らしく生きられる」ことだと思っていて、それは「友達や家族と楽しく会話する」とか「人とのふれあいの時間が長い」とか「本当に楽しいと思う趣味に没頭できる」とかだったりすると思うんですよね。
「友達や家族と楽しく会話する」とか「人とのふれあいの時間が長い」とかは、生産性や効率という言葉とは、別世界にあるものです。
テクノロジーによって、効率化することで、効率という言葉とは相容れない「人間らしさ」を享受する未来がくるのではというのは、なんともおもしろいことですね。
ただ、先ほど述べた手間は省けたけど、それによって失われる「価値」とはなにかと考えると、テクノロジーによる効率化の波によって、一部「人間らしい部分が飲み込まれてしまう」からだと考えます。
人の手をかけるからこそ、愛情を伝えたり、物語を伝えたりすることができます。その手間がかかる部分(人間らしさ)が、すべてテクノロジーによって取って替わられるべきだとは思えません。
わずらわしい手間が削ぎ落とされるのは大歓迎ですが、自分の想いを伝えるための手間だけは、手放したくないと思う人が出てくるでしょう。
自分の想いを使えるために、手間をかけるという言葉と価値観が、この先大事にされるようになるのではないでしょうか。