大島紬とは、平織りされた絹織物で、紬という名前が付いているように、もともとは手紡ぎされた絹糸が使用されていました。
また、車輪梅で染色し、泥の鉄分で媒染することで絹糸が染められます。
きわめて細かな絣模様が表現される点も、大島紬がその名を知らしめる理由となっていました。
目次
大島紬(おおしまつむぎ)の特徴
大島紬の特徴としては、染色と絣模様が挙げられます。
大島紬における染色
大島紬の糸染めには、車輪梅で染色してから泥で媒染する方法が取られていました。
車輪梅の樹皮や材木、根っこにはタンニンや茶褐色の色素が含まれており、先に車輪梅で染めてから、泥の中の鉄分で媒染することで、黒みを帯びた茶色である黒褐色に染まるのです。
車輪梅を煮出して、色素の抽出を効率的に行うために石灰を加えたりします。この煮汁で染めた絹糸は、赤褐色になります。
鉄分の多い土を選んで、「泥田」をつくり、この中に浸しては揉み込みを繰り返しながら、黒褐色の色合いまで染め上げていきます。
泥染された大島紬の絹糸は、何回も繰り返し染色されるため、糸の風合いがやわらかくしなやかに、絹特有の色のつやは消え、織り上げられたものは軽く、製品になった時にシワにもなりにくくなります。
泥染めを施した大島紬は「泥大島」とも呼ばれ、藍染の糸で織った紬織物を「藍大島」、泥染めと藍染を併用したものは「泥藍大島」などとも呼ばれました。
テーチキ(車輪梅)のタンニンと泥の中に含まれる鉄分とが化合することで、泥染特有の渋みのある色が生まれるのです。
大島紬における絣模様
大島紬のもう一つの特色は精緻な絣によって、柄が構成されている点です。
絣の糸染めは、もともと手括りで防染処理をしていましたが、明治40年(1907年)に奄美大島の永江伊栄温氏によって織締絣の技法が考案され、締機と称する大型の織機を用いて絣糸がつくり出されました。
織締による絣の染色は、締機染も呼ばれ、締機は、絣を固く締めるために手織り機の数倍重く、丈夫に作られています。
織締絣の利点としては、小さくて細かい絣を効率よく作り出すことができ、大島紬独特の精緻な柄が作り出されるようになります。
締機に経糸をかけ、これに絣糸となる絹糸を緯糸として打ち込み、経の上下糸で堅く締め付けて「絣筵」を作ります。
絣筵を染色すると、経糸で締められた部分は白い絣となり、締めていないところは無地に染めまります。
こうして作られた経と緯の絣糸を整経し、織機にかけて織り上げます。
大島紬の模様は緻密な絣で構成されているため、手機でなければ織ることができませんでした。
古く、薩摩藩は藩の財源として大島紬の絣技術にとてつもない精巧さを要求しました。
島民は、年貢品として上納するために、厳しく取り立てられた歴史があり、その苦労のなかから発展して技術であったとも言えます。
大島紬の歴史
鹿児島県の奄美大島で生産された大島紬の歴史は古く、江戸時代中期の享保年間(1716年〜1736年)には、すでに手括りによる絣の紬織物が織られていました。
薩摩藩は、享保5年(1720年)、奄美の島々に対して「絹着用禁止令」を出し、島の役人以外の一般島民に絹着用を禁止し、すべて税として薩摩藩に納められていました。
明治時代になると、薩摩藩による政治から解放されたため、交易も自由になり、大島紬は本土でも人気を博し、需要も大きく伸びました。
明治時代中期には、これまで真綿の手紡ぎ糸から、玉糸に、さらに大正時代になると、玉糸から本絹糸を使うようになりました。
昭和10年(1935年)には、すべて本絹糸使いに変わっています。
この時点で、厳密に言えば「大島紬」は紬ではなく、特徴的な絹の平織物となっています。
織り機は、それまでの居坐機から高機に変わり、絣染も明治時代末期には、手括りから織締(織締絣)の技法が用いられるようになりました。
大島紬は、絣によって経緯絣と緯絣に区別され、経緯絣は、経糸、緯糸ともに絣糸が用いられるため、染めにも織りにも手間がかかります。
緯絣は、緯糸のみに絣糸を用いるものです。