ログウッド(学名 Haematoxylum campechianum)は、マメ科の植物で、属名のHaematoxylumは、ギリシャ語でhaima(血液)とxylon(樹木)の二語から由来し、種名のcampechianumは、原産地がメキシコ湾のカンペチェ湾(Campeche)沿岸であることから命名されています。
血木と呼ばれるのは、材木を空気に酸化させると美しい赤褐色の色が出てくるためです。
原産地は、中米などの熱帯地方で、樹高は6〜12mほどになり、幹にはドゲがあります。
小さくて黄色い花が咲き、幹の中央部の心材が染料として使用され、青紫色の色素であるヘマトキシリンが含まれています。
ログウッド(logwood)は、国によって様々な名称があり、イギリスにおいてログウッドという名称がはじめて文献に現れたのは、1581年のことです。
17世紀の始め頃からヨーロッパの市場では、ホンジュラスのベリーズから産出するものとユカタン半島のカンペチェから産出するものの棲み分けがされていました。
カンペチェ産のものの方が、ホンジュラス産のものに比べて品質が優れているとされていたため、名称も区別する必要があったのです。
目次
ログウッドの歴史
ログウッドは、16世紀のはじめ頃、メキシコに上陸した探検家や征服者たちによって発見されたとされ、ログウッドの歴史はメキシコの発見とともにはじまったとも言えます。
もちろん、メキシコの発見以前にも原住民が染料として使用していたと考えられますが、どんな名称で使用されていたのかは記録が残っていないのでわかりません。
ログウッドは、メキシコのユカタン半島やホンジェラス沿岸の一部に生育していたため、メキシコに上陸したヨーロッパ人が帰国してからヨーロッパに紹介したと考えられます。
1517年にスペイン人のフランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ(Francisco Hernández de Córdoba)によってユカタン半島発見の報告がなされ、1521年にスペイン人のコルテス(Hernán Cortés)がメキシコ全土を征服して以来、スペインはログウッドを輸出入禁止品として指定しました。
つまり、スペイン国籍以外の船舶においてログウッドを発見した場合は船と荷物を没収すると宣言し、スペインの専売としたのです。
この政策の目的は、植民地の富をスペインのものにするためで、結果的にログウッドの専売権を、1555年から1655年までの約100年間持ち続けました。
ただ、16世紀後半からログウッドの需要が高まるにつれて、スペイン商船と船の積荷を狙うイギリスなどの海賊との海戦が、カリブ海や大西洋において繰り返されたのです。
スペインの専売と他国の禁止令
イギリスに最初にログウッドを持ち帰ったのは、ジェームズ・クック(James Cook)といわれています。
当時は、染色における媒染の技術が浸透していなかったため、ログウッドによる染色は退色しやすいとされていたため、エリザベス女王が1581年の法令で、輸入及び使用を禁止しました。
ただ、禁止法令の裏には、当時冷戦状態だったイギリスとスペインの複雑な国際関係が絡んでいました。
イギリスは、スペインの専売であったログウッドをイギリスの市場から排除し、スペインに利益を与えないようにするのが禁止法令を出した大きな理由の一つでした。
また、ログウッドの輸入は、国内の大青(ヨーロッパにおける藍染の原料)栽培業者にとっては大きな打撃であり、彼らの権利を守るためでもありました。
ただ、ログウッドの需要は年々増加し、染料業者は海賊から購入し、ブラッグウッド、ブルーウッド、ファスチックなどの偽名で呼ばれ流通していました。
イギリスのみならず、フランスやドイツにおいても国内の産業を保護するために、ログウッドの輸入を制限したり、使用を禁止したりしました。
フランスでは、ルイ14世の時代(1638年〜1715年)、財務長官であったコルベール(Jean Baptiste Colbert)は、国内の大青栽培業者を保護し、ログウッドの輸入を減らすために、ログウッドは不安定な色として指定していました。
コルベールは、歴史の教科書でも出てきますが、重商主義政策で知られている人物です。
国王の権力の元、国内の産業を育成し、輸入を減らし輸出を増やす、いわゆる保護貿易を振興し国内の富の蓄積をはかった彼の政策は、コルベール主義と呼ばれ、初期の資本主義を育成した人物のひとりです。
ドイツにおいては、フリードリヒ2世(1712年〜1786年)が、1758年にログウッドの使用を禁止しています。
ログウッドとインドのインディゴの関連
国内の染料市場を守るために、ログウッドに対して取られた対策と同様に、インドからやってきたインド藍によるインディゴに対しても輸入禁止等の対策がとられました。
インド藍によるインディゴが輸入される以前は、大青による藍染がヨーロッパで行われてきましたが、植民地支配によってインドで大量に産出されたインド藍は、コストが安く、染まりやすかったため、国内業者は脅威を感じていました。
1577年、ドイツの議会は、インディゴは有害で腐りやすい染料であるとして、法令で輸入禁止及び使用の禁止としました。フランスやドイツでも、同様の理由で禁止とされます。
スペインが専売権を失う
1588年に、世界最強と称されていたスペインの無敵艦隊が、イギリスの艦隊に敗れ(アルマダの海戦)、スペインの制海権が失われました。
当時のヨーロッパ1の強国を誇ったスペインは、この敗北を転機にだんだんと弱い国の道を歩むことになります。
1655年にイギリスがスペインからジャマイカ島を奪取したことは、スペインのログウッド専売権が失われた決定打となりました。イギリスは、同年にジャマイカも占領し、カンペチェやホンジュラスで産出するログウッドはイギリス及びヨーロッパ市場に運ばれました。
メキシコやホンジェラスなどの西インド諸島あたりでは、スペインとイギリスの紛争が絶えずおき、1783年と1786年の条約締結に至るまで争いは続きました。
イギリスで、輸入、使用の再開
イギリスにおいて、エリザベス女王が1581年の法令で、輸入及び使用を禁止していたログウッドが、1662年、イギリスのチャールズ2世(1630年〜1685年)の法令により輸入及び使用を許可されました。
この法令の成立は背景には、海上によるスペインの覇権が失われ、ログウッドの専売権が失われたことと、ログウッドの染色方法がある程度確立し、染色堅牢度も担保できるようになったこと、ログウッド染料が使いやすく、染め上がりが良いことが理解されるようになり、染色業者からの要望があったなどの理由が挙げられます。
18世紀後半には、ログウッドは、西インド諸島全域に分布するようになり、19世紀に入ってから分布の広がったログウッドが伐採可能となり商品化されていきました。
分布が広がった理由としては、1715年にバーハム(Dr. Barham)がホンジュラスからログウッドの種子を持って帰り、ジャマイカに移植しました。
この移植が成功し、ログウッドの人工栽培が容易であることがわかったため、1715年以降、西インド諸島全域では、ログウッドの移植が行われました。
19世紀前半がログウッド産業の成長期となり、後半から1916年ごろまでが最盛期でした。
各国が化学染料を開発し、ログウッドが衰退
1834年にドイツの科学者ルンゲがアニリンブルーを発明して以来、化学染料が次々と開発されていきました。
ヨーロッパにおいて化学的な染料が普及する過程では、ログウッドやインド藍などが普及しないように国内で大青栽培者による排斥運動がおきたように、今度は化学染料の普及を阻止する運動がおきました。
しかし、化学染料の普及は止まることはありませんでした。
1884年、ドイツのベーチゲルによって、直接染料が発明され、現在知られている化学染料の多くは出揃っています。
ただ、化学染料の普及にともなって、ログウッドの使用もだんだんと減っていくかと思われていましたが、使い慣れたログウッドの使用は衰えず、1890年にイギリスが輸入したログウッドは約6万トンで、過去20年の平均輸入量を上回っています。
1916年第一次世界大戦が勃発し、イギリスの染料業界に影響を与えたのはログウッド需要の増加です。
その当時は、化学染料の大半がドイツにおいて製造されていたため、戦争によってドイツからの供給が絶たれたことが理由としてありました。
1916年のイギリスにおけるログウッドの輸入量は、約13万4千トンにもなりました。
大戦によって、ドイツからの染料不足に頭を悩ませた各国は、それぞれ自国で化学染料を製造するようになりました。
自国生産の化学染料が普及していったことが、世界最大の需要を誇る染料であったログウッドの衰退の決定打となったのです。
日本において初めてできた化学染料会社は、1916年に創設された日本染料製造株式会社で、後の1944年に現在の住友化学株式会社に合併されています。
日本におけるログウッド
日本ではログウッドが江戸時代末期ごろから、紫色を染めるのに使用され、明治以降は、黒染めのために主に使用されるようになります。
もともとは、ログウッドの木材を使用していましたが、後にログウッドが加工されて色素が抽出された状態となった染料(ログウッドエキス)が多く使用されるようになります。
1893年(明治26年)稲畑商店の店主であった稲畑勝太郎によって、ログウッドエキスが日本に輸入されました。
需要は第二次世界大戦が始まるまで(1939年)順調に伸びていき、第二次世界大戦後(1945年)、オイルショックをきっかけに急激に需要が減少した時期もありました。
1974年(昭和4年)には、170トンものログウッドのエキスが輸入され、京都の伝統産業であった京黒染め業界では、年間約40トン近くを消費していました。
特に、京黒染めの独特の技法「三度黒」を用いる引き染め業者にとっては、黒留袖や絵羽織の加工になくてはならないものでした。
ログウッドエキスはどのように作られるか
ログウッドの心材をチップにし、風通しの良い室内の床の上に高さ1mほど積み上げ、水を撒いて2〜4週間放置します。
時々、かき混ぜることで温度と湿度を調節し、適度に発酵させると、木材が黒味がかった紫色になります。
この木材を窯に入れて、水を加えて24時間放置し、エキスを抽出させたのち、2〜3時間火にかけて沸騰させ、強い圧力を加えて搾ります(圧搾)。
一回抽出したログウッドには、再度水を加えて2〜3時間火にかけて沸騰させ、圧搾します。
2回の圧搾で得た抽出液を60度以下の低温度で煮詰め、そこにアルコールを加え、蒸発乾燥させます。
色素が溶け込んだ浸出液は樹脂を含み、蒸発の際に粒状になり分離するため、アルコールを加えると分離を防げるのです。
抽出液を型に流し込んで自然乾燥すると、固形のエキスができます。
ログウッドエキスの種類ですが、糊状のもの、粉状、ザラメのような結晶、固形、液体状など、様々な形状があります。
ログウッドエキスの成分
ログウッドエキスは、主成分としてヘマトキシリンとヘマティンがあり、ヘマトキシリンは無色透明の結晶であり、それが酸化されてヘマティンとなり、赤紫〜紫褐色(黒色)の色素になります。
黒染めでは、媒染剤に重クロム酸カリウムを用いて、クロームキレートを作ることで安定化させます。
ログウッドの染色
ログウッドの染色における特徴は、いくつか挙げられます。
まず、シルクやウールの動物性の繊維でも、綿や麻の植物性繊維でも染色が可能で、藍染のように、染色すると繊維の重量が重くなります。
媒染剤の違いによっても、さまざまな色を得られます。
クロム媒染→青黒色
鉄媒染→灰黒色
アルミニウム(ミョウバン)→紫紺色
錫媒染→赤紫色
銅媒染→暗緑青色
皮革を染める際には、皮革を痛めず、風合いはやわらかく滑らかな質感になります。染めても縮まず、染色することによって丈夫で長持ちさせるのも特徴として挙げられます。
ログウッドの染色において、媒染剤に銅、クロム、鉄で媒染した布の退色試験では、絹の方が綿より1から2級ほど、耐光性が良いようです。
理由としては、媒染剤の金属塩の吸着性が、絹が大きいためである。
ログウッドの染色による欠点(デメリット)の一つとして、アルカリや酸性に反応して色が変わりやすい点が挙げられます。
汗には「アルカリ性」および「酸性」の性質があるため、汗をかいた部分がログウッドで染色したものと反応して、色が変わってしまうことがあるのです。
染色の具体例
ログウッドの木材をできるだけ細かく刻んだものを、糸量1kgに対して200g使用します。
ログウッドを入れた鍋に6リットルの水を加えて熱し、沸騰してから20分ほど煮出して、煎液をとり、同じようにして4回ほど抽出し、すべて一緒にして染液とします。
染液を熱して糸を浸し、10分ほど煮染めした後一晩浸けておきます。
媒染
媒染は、錫酸ナトリウムを15g(糸量に対して1.5%)とクエン酸45g(錫酸ナトリウムの3倍量)を別々に水に溶いて、それぞれが透明になってから一緒に混ぜます。
一緒にすると少し白く濁りますが、しばらくすると透明になります。混ぜた液を、18リットルの冷水に入れて、染めた糸を20分ほど浸して媒染し、その後水洗いします。
染め重ねる
先に使用した染液を再び熱して、40度になったら糸を浸けて、20分ほど煮染めします。
ログウッドは染めむらになりやすいので、必ず温度が40度くらいの時に浸します。
上記で4回まで煎液をとった材木を再び煎じて、8回まで抽出し、再度染め重ねます。
濃くするには、工程を繰り返して染め重ねていきます。
【参考文献】
- 『月刊染織α 1982年3月No.12』
- 『月刊染織α 1982年4月No.13』