中国においては、紡績の歴史は新石器時代までさかのぼりますが、服飾についてははっきりとしていません。
新石器時代から麻類が用いられ、ついで蚕の繭から絹糸を引くことが始まったとされます。
中国のおける染織と服飾の歴史
中国大陸最古の王朝である殷の時代(紀元前16世紀頃〜紀元前1046年)の甲骨文字のなかには、桑(クワ)、蚕、絲、帛などの文字や糸編の文字が存在し、青銅器に付着した絹布も発見されているため、この頃には織物や服装に関する文化はかなり発達していたとみられています。
西周時代(紀元前1045年〜紀元前771年)には玉人像に特色のある衣服や冠の形態がみられます。
紀元前770年に周が都を洛邑(成周)へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代である春秋戦国時代に編集された『礼記』や『周礼』などからは冠服や一般の服装に関する制度、『詩経』(中国で最初にまとめられた詩集)や『書経』(儒教の重要な経典である五経の一つ)からは民衆の服装や衣生活を知ることができます。
当時の衣服は上衣と袴、あるいは裳の二部形式のものや、衣と裳の連結した深衣・裘(獣の皮で作った衣)などがあり、身分階級による服装の区別も行われていました。
遺物としては、洛陽金村から出土した銀胡人像
や長沙出土の彩色木偶、湖南の女人像の絵絹などがあります。
目次
漢代(かんだい)
秦に続く統一王朝で、中国で最初の長期安定した漢の時代(紀元前206年〜220年)に入ると織物の生産はさらに盛んになり、従来の麻織物と絹織物のほか、西側の国から輸入した毛織物の使用も始まります。
後漢・永平2年(59年)に服制が整備され、衣・裳・深衣を中心とした祭祀服や朝服の制が定まり、以後の中国服飾の基本形式が確立しました。
この時代の服飾資料は、馬王堆漢墓から出土した衣服や織物をはじめ、画像石・画像磚・加彩武人俑など豊富に存在しています。
絹織物は、平絹のほか、綺(浮文の絹)、錦、羅、紗、起絨錦(輪奈織)、鋪絨(ビロード)などの各種の紋織物があり、捺染や彩色によって文様(模様)を現したものも存在します。
戦国から漢代には刺繍技術も発達し、鎖繍を主体とした多くの遺品があります。
機械技術は、古式の布織から絹織へと発達し、錦綾を織る花機の方法も完成しました。
漢代の錦は、経糸で文様がはっきり表れるので「経錦」と言います。
六朝時代(りくちょうじだい)
六朝時代(3世紀〜6世紀)から隋・唐(6世紀〜10世紀)にかけては、インドの仏教文化やササン朝ペルシャの学問・芸術・法律・宗教など文化に関するものが中国に伝わり、服飾上にも西側の国々風のスタイルが流行しました。
六朝時代の染織は、漢代風を継承するものと、次の隋や唐の様式
のものと二つの流れがあります。
錦は、経錦が主流ですが、中央アジアからは漢代風の様式の文様を緯錦で織り出したものが輸入され、文様面でも従来の中国風のものにササン朝ペルシャの様式が加わります。
花鳥や山水などをかたどったものや幾何学文様などが、表現されていました。
唐代(とうだい)
唐代の服装を示す遺品にはイランやアラビア系の人種をかたどったものも多く、その西側地域の影響は、日本の奈良朝にも伝わりました。
唐の公式の服制は武徳4年(621年)制定の衣服令で、基本的には前代のものを踏襲しましたが、体系は大幅に変更され、胡服も取り入れられました。
唐代の官制や法制について記した書である『唐六典』には、唐代の織物には、麻布をはじめ、絹、絁、紗、綾、羅、錦、綺、繝、褐(毛織物)、綴、白畳(木綿)などの記載があります。
絞り染めの「纐纈」、板締めの「夾纈」、ろうけつ染めの「臈纈」の技術も中央アジアを経て六世紀末頃に中国にもたらされたという説があり、隋や唐の時代を通して盛んに用いられました。
刺繍では八世紀に平繍の技法が始まり、この時代ごろに作られた遺品は中央アジアで発見されたものや、正倉院に伝わる正倉院裂など多種多様です。
技術的には、緯糸で文様を表現する緯錦が広く用いられ、綾織(斜文組織)もこの時代に平織から分化しました。
「搗練図」は唐代における風俗を写したもので、12人の仕女が砧で絹地を打つ様子が描かれている
宋代(そうだい)・元代(げんだい)
宋代・元代(10世紀〜13世紀)の服制は、唐の時代に比べて種類が少なく、冠の様式なども簡略化されました。
一般の服装にも隋や唐の胡風化から脱して、古来の形式にもどる傾向がみられます。
宋代風俗画の大作である「清明上河図」には、宋代の庶民の暮しぶりやその服飾が表現されています。
花機の改良や撚糸技術の発達、繻子組織の完成、普及がみられます。
また、木綿の栽培が中国のほぼ全土に広がり、麻に代わって衣料の主材料となりました。
金銀箔糸も錦や金銀襴、刺繍などに巧みに利用され、印金なども行われます。
前代以降の綴は、刻糸と呼ばれて一層盛んになり、刺繍技術も豊富となり、精巧なものが作られました。
特に、蘇州のものは「蘇綉」と呼ばれ、珍重されていました。
モンゴル征服王朝の元(13世紀〜14世紀)では、治政方針をはじめ服飾に至るまでモンゴル様式を強制しましたが、明(14世紀〜17世紀)の建国におよんで服制も唐や宋以来の制度に戻りました。
明代(みんだい)
明代は、前代まで染織技術が互いに交流し、豊富な染織品が生産された時代で、錦や金襴、繻子織から発達した緞子、間道、刻糸、ビロードなどがあり、日本にも名物裂として伝わるものが多くあります。
更紗を意味する印花布もみられます。
刺繍は、日本で「明繍」と呼ばれる華やかなものが作られ、安土桃山時代の縫箔などにも大きな影響を与えました。
文・武官の公服に身分を表示する補子(服の胸と背に付けた四角い記章)をつける制度はこの時代に始まり、清代に継承されました。
古くから日本の上杉神社所蔵していた「明冠服類」は、明から上杉景勝に贈られたものです。
清代(しんだい)
清代(17世紀〜20世紀初頭)の染織は前代の継承ですが、技巧的なものが多く、光沢があり華やかな七枚繻子や八枚繻子は清代に始まりました。
清は、満州族による征服王朝であったため、崇徳元年(1636年)に定められた服制は満州式の胡服本位でした。
清代の官服は日本にも残されていますが、形態は筒袖で騎馬に便利な胡服形式が踏襲されています。
清代末期からは、洋務運動、変法自強などの政治運動の結果、洋式の染織技術が導入され始め、やがて主流となっていきました。
【参考文献】『草人木書苑 染織大辞典2』