日本に梅が伝わったのは、弥生時代から飛鳥時代ごろとされ、中国から薬用の烏梅として伝来したと言われます。
梅は、薬用、食用、観賞用、そして染色用と多様な用途のある有用な植物として栽培されるようになり、梅の花は古代より人々に観賞され、愛好されてきました。
平安時代には、梅の花が春の先駆けとして咲くことから新年の希望の花とされたり、松と竹とともに歳寒三友の一つとして瑞祥の意味が与えられていました。
中国の人々は松・竹・梅を厳しい環境でもその節度を守り不変の心をもつものとして「歳寒三友(さいかんさんゆう)」と古くから讃えており、日本にもその風習が伝わっていました。
デザインにおける梅の花・梅文(うめもん)
工芸品のデザインにおいては、中国思想をもとにした文学的なテーマによる梅の花のデザイン(梅文)が多く作られ、近世以後の染織品においては、デザインも多様化し、もっとも多く用いられた模様(文様)の一つとされます。
江戸時代初期の画家である俵屋宗達や尾形光琳(1658年〜1716年)、尾形乾山(1663年〜1743年)などの梅花のデザインは、以後あらゆる工芸デザインに影響を与えました。
箙の梅文(えびらのうめもん)
箙(矢を入れて肩や腰に掛け、携帯する武具)に梅の枝を添えた模様(文様)を、箙の梅文(えびらのうめもん)といいます。
元歴元年(1184年)、源平が生田森で戦った際に、源氏に仕えた武士である梶原景季が箙に梅の枝を挿して奮戦したとされます。
梶原景季は関東一の伊達男と言われ、その風流を称賛した故事は、謡曲の「箙」や歌舞伎の「ひらかな盛衰記」となり、染織のデザインにおけるテーマにもなりました。
江戸時代後期に作られた帷子である「白麻地梅に箙文様(しろあさじうめにえびらもんよう)」は、箙の梅文(えびらのうめもん)が取り入れられた例の一つです。
参照:文化遺産オンライン「帷子 白麻地梅に箙文様」