昭和十五年(1940年)前後の日本の手仕事の現状を記した『手仕事の日本』という本があります。著者は、「民藝」という言葉の産みの親でもある柳宗悦(1889~1961)さんです。
「民藝運動」という言葉は、誰しも一度くらいは聞いたことがあるのではないでしょうか。柳さんは、「民藝運動の父」とも呼ばれ、私たちが日常的に使っていた道具の美しさを指摘した最初の人物でした。
さて、そんな柳さんが全国を旅した知見から紹介されている数々の手仕事のなかでは、もれなく日本の「藍」に関する記述があります。
藍に興味がある方は、ぜひ読んでみてください。以下、『手仕事の日本』からの引用です。
『手仕事の日本』
阿波にはいろいろなものを数え得るでありましょうが、この国が天下にその名を成したのは何よりもまず「藍」のためであります。「阿波藍」といって、日本全土に行き渡り、おそらく紺屋という紺屋、皆多かれ少なかれここの藍を用いました。
それというのもかつては吾々(われわれ)の着物のほとんど凡てが紺染であったからによります。費用は莫大なものであったでありましょう。盛に藍草を植えて、それを藍玉に作ったのは徳島市から程遠くない村々で、今も訪ねますと、それは見事な蔵造りの仕事場が見られます。何しろ江戸中期この方、日本中の販路をほとんど阿波の国一手で引き受けていたのですから、如何に仕事が盛であったかが分かります。
徳島市を流れる河岸に白い壁の大きな土蔵が列をなして列んでいますが、皆藍を入れた倉庫であります。よい品を出すことを互に競って、年々等級を定めて名誉の札を贈ったものであります。誠に天下一の藍でありました。
藍というのは一年生草本でタデ科に属する植物であります。葉は濃い紫色を呈し花は紅で、阿波の平野にこれが一面に植えられている様も見ものでありました。その葉から染料を取ります。醗酵させて固めたものを「藍玉」と呼び、まだ柔いのを「蒅(すくも)」といいます。紺屋はこれを大きな甕に入れ、石灰を加え温度を適宜(てきぎ)にし、かき混ぜつつ色を出します。よい色を出すのはなかなかの技で、昔は藍のお医者があったといわれるほどであります。
もとより青の色でありますが、普通淡い方を「藍」といい濃い方を「紺」と呼び慣わしています。この色は広くは東洋の色として称してもよく、西洋には余り発達の跡を見ません。そのためでもありましょうが、西洋人は植物から取るこの天然藍に一入(ひとしお)感じ入るようであります。かえって私たちは余りにも見慣れているため、その価値を顧みない傾きがあります。
もとより支那でも好んで常民の服にも用いられていましたが、おそらくこの色を最も多く取り入れたのは日本人ではないでしょうか。その証拠にはこの色を以って凡ての色を代表させました。染物屋を呼んで「紺屋」といいます。庶民の着物であった絣(かすり)もまた「紺絣(こんがすり)の名で親しまれました。それほどわが国では紺が色の本でありました。
遠い地方にはいわゆる「地玉」といってその土地の藍もありましたが、何といっても「阿波藍」は藍の王様でありました。色が美しく、擦れに強く、香が良く、洗いに堪え、古くなればなるほど色に味わいが加わります。こんな優れた染料が他にないことは誰も経験するところでありました。
しかし時は流れました。明治の半頃までさしも繁昌(はんじょう)を極めた「阿波藍」にも大きな敵が現れました。化学は染めやすい人造藍を考え出しこれを安く売り捌きました。利に聡い(さとい)商人たちはこれにつけ込みましたから、非常な早さで蔓延りました。そのため手間のかかる本藍はこれに立ち向かうことが難しくなりました。それは近世の日本の染織界に起こった一大悲劇でありました。昔はあれほど忙しく働いた大倉庫は、まるで空家のように荒れ始めました。そうして今は細々とわずかばかりの仕事を続けているような事情に陥りました。
これは時勢といえばそれまででありますが日本人は人造藍で便利さを買って、美しさを売ってしまいました。この取引は幸福であったでしょうか。そうは思えないのであります。なぜならこれは少数の商人に大きな利得をさせたというにすぎないでありましょう。買手はこれで安く品が変えたとしても、色は本藍ほどに丈夫ではありませんし、使えばきたなく褪(あ)せてゆきます。それに何より取返しのつかないことは、天然藍が有つ美しさを失ってしまったことであります。
化学は人造藍の発明を誇りはしますが、誇るならなぜ美しさの点でも正藍を凌ぐものを作らないのでしょうか。それは作らないのではなく、作れないのだという方が早いでありましょう。この点で化学は未熟さを匿(かく)すことは出来ません。美しさにおいても正藍を越える時、始めて化学は讃えられてよいでありましょう。化学は天然の藍に対しては、もっと配慮がなければなりません。
誰も比べて見て、天然藍の方がずっと美しいのを感じます。それ故昔ながらの阿波藍を今も用いる紺屋は、忘れずに「正藍染」とか「本染」とかいう看板を掲げます。そうしてその店の染めは本当のものだということを誇ります。また買手の方も「正藍」とか「本染」とかいうことに信頼を置き、かかる品を用いることに悦びを抱きます。これは今では贅沢ということにもなりますが、本当の仕事を敬い本当の品物を愛するという心がなくなったら、世の中は軽薄なものになってしまうのでありましょう。
つい半世紀前までは日本の貧乏人までが、正藍染の着物を不断着(ふだんぎ)にしていたことをよく顧みたいと思います。嘘もものなかった時代や、本ものが安かった時代があったことは、吾々に大きな問題を投げかけてきます。これに対してどういう答えを準備したらよいでしょうか。