日本の編み物の歴史。南蛮貿易時代からニット生産の近代化、メリヤスからニットへ。


日本の編み物の歴史は、1592年ごろにポルトガル人やスペイン人によって、手編みの靴下や手袋などがやってきたことが始まりとされています。

南蛮貿易時代に、日本の編み物の歴史がスタート

その後、1596年〜1614年の南蛮貿易時代の文献には「メリヤス」という言葉が記載されています。

今、現存するものとしては、常陸水戸藩の第2代藩主であった徳川光圀(とくがわ みつくに)が着用していた綿とシルクの靴下がもっとも古いものとされています。柄編みの靴下で、再現を試みたところ、一足つくるのに機械編みで数日かかったそうです。

徳川光圀といえば、創作物語である水戸黄門の黄門さまその人ですね。

編み物が一般庶民の生活の中に現れたのは、1673〜1680年に書かれた俳諧集である「洛陽集(らくようしゅう)」のなかにある「唐人の古里さむくめりやすの足袋」とされています。

手編みの技法に関しては、南蛮貿易が盛んな時代に最初は遊女に伝わったようです。その後、手編みの技法は町人の間に普及しますが、そこから武家のものとなり、1804〜1830年のころには、江戸で手袋を製造販売する人々が現れました。

手編みの普及によって、足袋、手袋、印籠下げ(いんろうさげ)、襦袢(じゅばん)、股引き、胴衣などさまざまな品々や衣服がつくられ、徳川時代の人々の生活のなかに取り入れられました。

生産の主な担い手は、江戸在勤の諸藩の微禄武士(びろくぶし)や浪人たちの手内職で、神田付近の糸屋、足袋屋が取り扱ったと伝えられています。

ニット生産の近代化

明治時代に入ると、メリヤスは「莫大小」あるいは「目利安」と書かれて大衆化していきますが、機械編みが本格的に始まったのは、明治3年に佐倉藩士の西村勝三が横浜外商館から、手回し式の小丸機、靴下編み機を手に入れ生産を行ってからです。

明治6年に開かれたウィーン万博から持ち帰られた編み機をモデルにし、東京府の楠本正隆(くすもと まさたか)が鉄砲鍛冶の名人であった国友則重(くにとものりしげ)に模倣品を作らせました。

国友則重は、直径8寸(約24cm)の円形に290本の線を切り込んで編機を作り上げたそうです。これが国産の編み機の第一号になりました。

明治8年には、機械編みの靴下がはじめて清国に輸出され、その後のメリヤス産業は日清、日露戦争による軍事品生産を中心に急速に伸びていきます。

大正時代には、綿靴下、軍用手袋、肌着などから高級品までに用途を広げ、世界各国に輸出を伸ばし第一次世界大戦後にはイギリスをはじめとする欧米の水準に追随するまでにメリヤス産業が発達します。

しかし、第二次世界大戦でメリヤス産業ももれなく壊滅的な打撃を受けましたが、GHQによる「繊維産業再建三ヶ年計画」によって、アメリカから提供されたCCC綿による生産の再開、朝鮮特需などの波にのり、さらなる飛躍の機会を得ることに成功しました。

メリヤスからニットへ

もともとメリヤスは、肌着や靴下を主に表す言葉でしたが、ファッション性の高い上着までにも生産が広がったため、より包括的に表す言葉として「ニット」という呼び名が使われるようになりました。

ニット生産の技術の発展は、合成繊維が発明されたことによってもたらさのが大きいですが、昭和40年代以降の高度経済成長と共に消費の多様化が進み、ニット生産の自動化、高速化が進みました。

高級な綿糸やコーマ糸の使用の増加により、糸の高品質化が進みより高級化したものが多く作られることになりました。


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