藍染された木綿糸(先染め)

藍作・藍染と木綿の深いつながり。共に発展し、衰退していった歴史


明治8年(1875年)に、東京大学の初代お雇い教師であったイギリスの科学者であるロバート・ウィリアム・アトキンソン(1850年~1929年)が来日した際、道行く人々の着物や軒先のきさき暖簾のれんなどを見て日本人の暮らしの中に、青色が溢れていることを知りました。

東京を歩き、日本人の服飾に藍色が多いのを見て驚いたアトキンソンは、明治11年(1878)『藍の説』を発表し、藍に「ジャパンブルー(JAPANBLUE)」と名付けました。

日本中の庶民にとって大切にされてきた、藍染の衣類。

藍染が日本に広がった理由として、木綿との非常に密接な関係がありました。

木綿の栽培とともに藍作りと藍染が爆発的に広まる

もともとは苧麻からむしや麻が、庶民の衣服の原料として地位を確立していました。

木綿は、栽培の手間のかからなさや経済性の高さによって、16世紀には国内での栽培が広まり、17世紀初頭ごろには、苧麻からむしにとって変わって発展していきました。

関連記事:日本の綿花栽培・木綿生産が普及した歴史。苧麻が、木綿に取って代わられた理由。

綿の飛躍的な広まりは、関連するさまざまな分野が社会の経済構造を大きく変えるほどの影響力を持ちました。

もっとも影響を受けたものの一つとして、藍作と藍染が挙げられます。

室町時代から戦後時代にかけて、藍の需要が高まり、苧麻がメインの頃から日本の代表的な染料として地位を確立していました。

藍染の原料は、たで藍葉っぱを乾燥させて発酵させた「すくも」と呼ばれるものですが、もともとは原始的に葉っぱをこすりつけたり、自然発酵させたりしたので、染色できる期間は発酵しやすい夏場時期に限られていました。

蓼藍(タデアイ)

蓼藍(タデアイ)

すくもという形に加工し、染料として一年中染められるような技術的改良がなされたのは、江戸前期とされ、その発展は木綿の広がりが背景にありました。

木綿の経済性の高さや生産コストの安さによって、庶民の需要が増えたことで、染料として相性の良い藍の需要も高まるというのは必然でした。

藍はウールやシルクのような動物性繊維にも染まり、他の染料に比べると染色した後に退色しにくい(堅牢度けんろうどが高い)のも、庶民に広がっていった理由の一つです。

蓼藍(タデアイ)の花

蓼藍(タデアイ)の花

藍の主産地として阿波が登場

どの産業においても、さまざまな要素によって産地の集中が起こるというのはよくあることです。

藍作の場合は、阿波あわ(現在の徳島県)が主産地として登場します。

藩主であった蜂須賀はちすか家が、現在の兵庫県播磨はりまから藍作の技術者を招いて藍作技術指導にあたらせました。

1625年に藍方役所あいかたやくしょと呼ばれる役場が藩内に設けられ、藍の栽培と製造の監督が行なわれていたので、この頃から重要な産品としての藍作が認識されていたのは間違いありません。

その後、藍作の保護と奨励政策をとり、阿波藍はますます盛んになっていきます。

藍商人によって、全国の染屋に阿波産の蒅が行き渡る

阿波で作られたすくもが、全国各地の染屋に渡るためには販売ルートが必要です。

そこで、藍商人と呼ばれる存在が活躍します。

藍師から買い集められたすくもは、藍商人の元に集められ、大阪や江戸の藍問屋に送り出される流通経路が確立しました。

阿波藩は藍商人に販売独占の特権を与え、その代わりに税を課すことによって財政を潤そうとしたりするなどの流通統制をし、藍商人は富を蓄えるようになります。

ちなみに現在の阿波銀行は、阿波藍商人たちが資本を持ちよって民営の銀行として設立したのが始まりです。

明治時代に合成藍が入り、藍作・藍染が急速に衰退

阿波藍は、クオリティが高いすくもとしてブランド化していたので、その他の場所で作られたすくもは「地藍」と呼ばれランクの低いものとされました。

商売であれば、良いものを原料に使っているのであればアピールしたくなります。阿波藍を使っている染め屋は公表することで、染め屋としての差別化をはかっていました。

ただ、木綿とともに繁栄してきた藍作と藍染に大きな転機が起こります。

ドイツの化学者が、天然藍とまったく同じ科学構造を持つ合成藍を1880年に発明し、日本には明治時代に輸入されてきます。

明治政府の殖産興業によって、国内の木綿栽培が、海外の安価な綿によって衰退したように、天然藍も合成藍の圧倒的な手軽さを前にして、急速に衰退していくのです。

ともに発展していった藍と木綿が、同時期に急速に衰退していったのはなんとも悲しい出来事ですが、産業の近代化の波に対しては為す術はありませんでした。

藍作・藍染と木綿の歴史は、さまざまな面からみても、深い歴史的つながりがあったのです。

【参考文献】:『苧麻・絹・木綿の社会史』


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